川柳と習字を与那国島から

日本史と世界史を題材に最西端の島から!

袋角 511 大内義長

朝、善福寺川沿いを走ってきました。夏の朝の気配があり、チョッと遅い時間に走ったら、だるくなるだろうなと思いました。

「日本史1200人」511 大内義長(ヨシナガ;1532〜1557)

周防・長門両国の戦国大名、周防大内氏・第17代当主、大友宗麟実弟大内義隆の養子となるが、嫡子が生まれたため解消された。その後、義隆の重臣陶晴賢が謀反を企て、1551年に義長を新当主に望んだ。傀儡としての擁立と内々知っていたが「要請を断り中傷を受けることの方が悔しい」と当主になった。1555年、晴賢が毛利元就との厳島の戦いで敗死すると、義長の求心力は低く家臣団は崩壊し、大内家は急速に衰退していった。これを見た毛利氏は1557年に山口へ侵攻した。義長は寡兵をもってよく防戦したが敗走し、毛利軍に囲まれて強要されて自害した。これにより西国の名門・大内氏は滅亡した

「傀儡の袋角して泣き笑い 大内義長 に 端遊」

袋角(フクロヅノ)が5月の季語です。雄鹿の角は初めは皮を被っていて血管が通り袋状です。義長は最後まで角を見せられなかったようで、自害を強要された時は泣き笑いかな・・・毛利元就は義長の兄・大友義鎮に対して、大内家復興に関する所存を求めましたが、義鎮は大内家の断絶を勧めて復興を拒絶しました。

習字は、「傀儡の」は弱く、「袋角して」は丸く、「泣き笑い」は悲しく、というつもりで書きました。


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