川柳と習字を与那国島から

日本史と世界史を題材に最西端の島から!

木下闇 521 龍造寺隆信

朝、善福寺川沿いを走ってきました。いつもの人が、いつものように走ったり歩いたりしていました。島では朝のランで人に会うことは珍しいです。

「日本史1200人」521 龍造寺隆信(タカノブ;1529〜1584)

戦国から安土桃山時代の武将、肥前国戦国大名。はじめは大内氏に従属する形で勢力を強めたが、大内義隆が死ぬと後ろ盾を失い肥前を追われた。1553年に再興の兵を挙げ大友宗麟の配下に入る形で肥前に戻った。その後力を蓄えたため、1570年に宗麟から6万の大軍の攻撃を受けたが、家臣の鍋島直茂の進言による夜襲を成功させて敗走させ、肥前を統一した。 さらに大友氏の領地へも侵攻して北九州を勢力下においた。その後は島津氏からの圧力が高まり、1584年の沖田畷の戦いで敗れて戦死した。肥満体で 風貌から「肥前の熊」と呼ばれ、馬に乗ることができず輿に乗って移動していたため、敵に居場所を知られて討ち取られたとも言われている。

「輿の殿木下闇では隠せない 龍造寺隆信 に 端遊」

木下闇(コシタヤミ)が6月の季語です。木々の茂みが作る闇です。隆信の最後は籠に乗り、6人の担ぎてとともにアシの茂みに隠れていたそうです・・・隆信の言葉として「分別も久しくすればねまる」があります。「熟慮も過ぎると腐る」の意で、一代で龍造寺家の版図を広げた一方、少しでも疑いのある人物を処断して人望を失うことも多々あり、人生を左右する結果となりました。

習字は、「輿の殿」は太ったように、「木下闇では」は強く大胆に、「隠せない」はそれなりに、というつもりで書きました。


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